インターネットによって世界が自在に繋がるように見える現代、“人間の存在と場所、アイデンティティーとの関わり”は人類共通の大きなテーマとなり、アイデンティティーはその人が実際に生活している場所と直接的な関係があるのか、改めて考えさせられるようになった。
私は2005-2006年、ロンドンに住み、多様な世界観と向き合うことになった。そして、移民を中心に約100人を、その人の住む部屋と共に撮影し始めた。被写体となる人物には、椅子に座り斜め正面を向いてもらう。この方法では、撮影は法則化され、表現の自由は制限されるが、それらの映像を比較可能にし、その部屋は、まるでその人の抜け殻のように、また、自由と不自由(束縛)の中で暮らす人々のあり方のようにも見える。
禅の世界に於いて、”囚われがない”とは、何も見ず、何も考えない状態にした時に訪れる“無”の状態を指す。それはやがて本来の”自分”の再発見に至り、更に坐禅を通じて、囚われから離れた自由な境地に達したのち、そこで得た新たな価値観によって他者やものごととの新たな関係を築いて行くという修行の一つだ。
私は少年時代に何度か座禅修行の体験をした。それは、“自分がどこから来て、どこへ向かうのか”、という自己のアイデンティティーと向き合うことであったが、それ以上に自分を”無”の状態にする事の難しさを痛感させられた。それは、無意識のうちに自分が何らかの思想に囚われていたからであろう。
禅は、本来教義を否定している。つまり、言葉や文字に頼らず、非言語によってものごとの本質へと近づこうとする修行なのだ。それは、私にとっての写真行為そのものでもある。なぜならば、時として写真は被写体の奥底に秘められた何のものかを浮かび上がらせ、その本質に迫ることが出来るからだ。そして、その時に向き合うこととなる葛藤は、まるで禅の修行のようだ。