「確かなものと不確かなもの…」
と、私の作品は評された事がある。写真を撮ることは、私にとって空白とも言える時間。その中で感じる安堵と興奮。中国の都市を撮り続けていた私は、写真がいかに「確かなもの」を捉えるのか、考え続けていた。そしてその「確かさ」は、アジア人としてアジアの国でのみ感じられるものなのか疑問を抱き、その答えを出すべくヨーロッパへ向かった。イタリア、フランス、スペイン、ポルトガルなど、都市から都市へと移動を繰り返した。
私にとって「写真を撮る」とは、被写体の内奥に潜む何ものかを浮かび上がらせ、その本質に迫る行為だ。「翳り」は、その写真行為が紐解くことの出来るひとつのミステリーであろう。この「翳り」は、街の片隅や、物や人のコアな部分に棲息しているオーラのような、澱んでいる空気のようなものだ。私が幼年期に住んでいた伝統的な日本家屋、その奥の部屋、床の間に、決して捕まえることの出来ない雰囲気のように存在していた。夕刻の日差しが床の間を包み、やがてそれが薄れ行く時に翳りは消える。
ヨーロッパの旅で、その光が、私がこれまでに体験して来た日本や中国のものとは異なることを実感した。しかしながら、欧州や中国のような歴史と風土に育まれた街では、時は悠然と流れ、それは人々の表情や、暮らしぶりにも現れている。街は、土地の歴史が織りなす固有の翳りに包まれているようだった。